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【リレーコラム】モノ想う Vol.7

菰野の女性建築士の中野さんです。
「あっちの世界とこっちの世界。」
想像力を刺激する私のお気に入りアイテムだ。
私には他県で一人暮らしをしている義理の母がいる。
いわゆる独居老人、齢81。
半年前に老人性痴呆症とアルツハイマー型認知症と診断され、現在の要介護認定は〈レベル2〉。
彼女はとても賢い人だ。
美人で外面も内面もフェミニティを売りにしている。
本人も自分の能力に高く誇りを持っている。
私たちが出会って間もない約20年前、私に自分の事をよく話してくれた。
それらは、ごくありふれた思い出話だった。そのいくつかは私が要約するに
「自分は女を武器にして、あらゆる障害を切り捨て、困難をなぎ倒し、着実に世渡りしてきた。」
であった。
私には無情と思える話を、にこやかに自慢話として語る無邪気な彼女。
一見おっとりしたお嬢様だが、内面はしたたかな女王様だと、私は悟った。
そんな彼女、80歳を前に自分があっちの世界に行くのを感じ取る。
あっちの世界とは決してあの世ではない。
「介護される立場」である。
実母、年上のいとこ、年上の茶道仲間はあっちの世界にいた。
誇り高き彼女は、自分があっちに行くことは露程も想像出来なかった。
こっちの世界での楽しみ、そして築き上げたプライド。
それを放棄することができないまま、痴呆症という津波に飲み込まれ、あっという間にあっちの世界に押し流される。
痴呆症が進行する中、彼女は気高いプライドを盾に、こちらが差し伸べる手をすべて払いのけ、自分は一人で大丈夫と散々に我を通し、お風呂も歯磨きも着替えも出来ない荒廃した日々を1年ほど過ごした。
段々こっちの世界では誰も相手にしてくれなくなり、生命維持のためデイサービスに行かざるを得なくなる。
自宅に迎えに来たデイサービスの職員は、心に傷を負い、悪態をつき続ける迷える汚い老人を、優しく導いて車に乗せ運んで行った。
さらに、「入浴させる」という私にとって1年越しの懸案事項まで解決した。
私が驚くべきは、ここからの彼女の展開である。
あっちの世界とこっちの世界の境界を見事に飛び越えた義母。
いや、飛び越えたというより自分の中の世界を丸々入れ替えたというべきか。
たくましく生き抜くための長けた能力にただただ脱帽するばかり。
彼女にとって、あっちの世界の入浴は今まで味わったことのない極上のサービスだった。
自宅とは違う暖まった脱衣室で、服を脱がせてくれる。優しい職員がシャンプーで髪を洗ってくれて、ボディタオルで体をこすってくれる。忘れていた石鹸の匂い。たっぷりの湯船に手足を伸ばして入る。職員が常に優しく手を貸してくれる安心感。
裸をさらしたくないという頑なこっちの世界のプライドは、小さく萎んでやがて消える。
湯上りには体を拭いて髪を乾かしてもらい、用意された洗濯済みの服を着せてもらう。
「ここは天国だわ、まだ死んでいないけれど。」と
「こんなサービスが受けられる、こっちの世界はなんて素晴らしいのかしら」
と思ったに違いない。
この瞬間、本当にこの一瞬で彼女はあっちの世界とこっちの世界を入れ替えたのだ。
そして、彼女は内外共に見事に生まれ変わった。
デイサービスでの入浴は、体にこびりついた垢と共に彼女の古くぼろぼろになったプライドを洗い流し、新しい場所で新たに光るプライドを構築させる。
彼女は境界を越え、今までと価値観の違う新品のプライドと共により本性に近い素の自分を取り戻す。
あんなに嫌がっていたデイサービスだったが、この日を境に毎日喜んでいくようになる。
賢さが垣間見える少し気取った会話と自慢のお嬢様スマイルを振りまき、職員との関係を築くのは彼女の楽しみの一つとなる。
あっちの世界でも、彼女はにこやかに笑う穏やかな生活を自力でつかみ取ったのだ。
お見事!
あっちの世界とこっちの世界。
これを聞いてどんな相対する世界を連想するかは、その人、その場所、その場面によって千差万別。
あなたのあっちはどこですか?
私のあっちの世界といえば、夢の世界だった時期がある。
本当によく夢を見て、眠るのが毎日毎日楽しみだった。
夢ならではの驚くべき設定や普通じゃない話の展開は最高。
最近は夢を見ない。その代わり考え事をしているとそのまま妄想の世界に入り込む。
白昼夢、今はこれがあっちの世界。
夢程の奇抜さやスリル、破壊力ははないが、十分楽しませてくれる。
まだこっちの世界にいるつもりだけれど、あっちの世界も捨てられない。
では、またね。